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水曜日にはチャーハンをたべよう




 芽衣さんは、必ず毎週水曜日に、ごはんをつくりにやってくる。
 彼女曰く、わたしの「通い妻」だかららしい。

 お醤油の焦げるこうばしい香りが漂ってきていた。
 そら豆のかたちのクッションを抱きしめて、ソファの上で本を読んでいたわたしのお腹が、たったいま空腹を思い出したみたいにちいさく鳴った。

「おなかすきました」
「ちょっと待ってね、すぐだから」

 カウンターの向こう側から、フライパンの上に乗せられたものがひっくり返されるときの、じゅう、という音と一緒に、芽衣さんの声が返ってきた。
 顔も声も似ていないのに、その口調だけがやけに母そっくりで、うっかり「お母さんみたい」と言いそうになった。けれど、言ったら「わたしはまだ若いのに」と、いやがられるかもしれないので、結局は言わないでおいた。
 わたしは読みかけの本を閉じて、ソファの上にごろんと横になった。なまけものの飼い犬よろしく、ごはんができあがるのを待つ。
 母や父なら「お行儀が悪い」と怒るけれど、芽衣さんはそういうことを言わない(むしろ芽衣さんも一緒になってごろごろするタイプだ)ので、安心して身体をゆるめることができる。
 家でいちばん大きな窓に背中を向けるように置かれているソファには、日中の太陽のあたたかさがいっぱいにしみこんでいて、ぽかぽかと気持ちがいい。

「できましたよ、食いしん坊さん」

 ついうとうとしかけていた目を開けると、芽衣さんの白いひらひらとしたエプロンが視界に飛び込んできた。
 芽衣さんはいつも、あまり実用的には見えない、レースやフリルたっぷりのメルヘンチックなエプロンをつけてお料理をしている。
 わたしがおきあがりこぼしみたいにぴょこんと跳ね起きたときには、すでにテーブルの上に今日の夕食が並んでいた。
 丸くて平たいお皿には、こんがりきつね色をした焼きおにぎりがふたつ、ほかほかと湯気をたてていた。それからハーブとミニトマトのサラダに、オニオンスープ。
 四人で使うことを想定されたダイニングテーブルは、ふたりで使うには広すぎるからか、芽衣さんはいつも贅沢にテーブルを使って料理を並べる。
 四脚ある椅子のうち二脚はリビングの隅のほうに除けて、わたしと芽衣さんは、ゆったりと向かい合う。
「いただきます」と声をそろえてから、わたしたちはそれぞれお箸をとって食べはじめた。わたしはまず、焼きおにぎりに手をのばした。丁寧に焼かれたおにぎりの表面はかりかりとこうばしいのに、中はふっくらとやさしかった。ごはんにしみこんでいる砂糖醤油のあまじょっぱい味が、噛むたびに広がって、口の中が懐かしさで満たされる。

「どう、秋菜ちゃん?」
「お醤油の風味がお米一粒一粒にしみこんでいて、とても味わい深いです」
「グルメレポートのような感想をありがとう」

 芽衣さんは、ミニトマトを口に運びながら肩をすくめて笑った。

「いつも思うけれど、やっぱり広いキッチンっていいね。使い勝手がぜんぜん違うもの。うちのおもちゃみたいな一口コンロとは大違い」
「ひとり暮らし用のアパートって、キッチンの広いお部屋はないんですか?」
「ないこともないけれど、そういうところは高いの、家賃」

 芽衣さんは週に一度、決まって水曜日に、エプロンだけを持って現れる。
 料理上手で、冷蔵庫の中にたまたまあったものや、前日の残り物なんかをアレンジして、なんでも手際よくつくってしまう。桜えびと白菜のスープに、枝豆入りのだし巻き卵、ちくわと人参のきんぴら、レンコンのハンバーグ。
 芽衣さんがつくってくれるものは、どれもとくべつなものは使われていないのに、ちゃんとおいしいところがすごい。
 わたしは自分が料理できないせいか、おいしいごはんがつくれるひとを、素直に尊敬してしまう。
 わたしがかろうじてつくれるものといったら、たまごを使った簡単な料理くらいで、芽衣さんがつくってくれるものと比べたら月とすっぽん、いや比べることすら申し訳ない。
 きっと芽衣さんは、いいお嫁さんになるのだろうな、と思う。
 いまどき「お嫁さん」なんて言い方は流行らないかもしれないけれど、芽衣さんにはなんとなく、この言葉がぴったりくるような気がした。
 だから「通い妻」という、それまで普段の会話で聞いたこともなかった言葉を持ち出されたときも、不思議とそこまで変な感じがしなかったのかもしれない。
 わたしは芽衣さんが料理をつくっている後ろ姿を、よくこっそり眺めている。淡い色のワンピース(芽衣さんの恰好は、たいていワンピースだった)に、フリルがあしらわれた白いエプロンという組み合わせは、ときどき目にまぶしい。
 そして一瞬、ほんものの新婚さんにでもなったかのように錯覚することが、たまにあった。わたしと芽衣さんが結婚する未来なんてどこをどう探したってありえないので、思うたびに可笑しくなって、涙まで浮かんできてしまう。

「あれ。電話、鳴っていませんか?」
「あ、ごめん、わたしかも」

 芽衣さんはエプロンのポケットから、振動している携帯電話を取り出した。けれど画面をちらりと確認しただけで、再びポケットの中へ戻してしまった。

「いいんですか、出なくても?」
「あとでかけなおすから、大丈夫。それにほら、食事中だしね」
「そうですか」

 わたしはうつむくようにして、オニオンスープをすすった。
 自分がいま、怪訝な顔をしてしまっているような気がして、それを見られたくなかった。
 前に、食事中にわたしの携帯電話が鳴ったことがあったとき「緊急かもしれないし、出たほうがいいよ」と芽衣さんは言った。それでなくても、そもそもお行儀とかマナーとかにうるさいタイプではない。
 芽衣さんは、わたしが自分から話さない限りはなにも訊いてこないし、自分のこともあまり話さない。学校の成績はどうだとか、習い事のことだとか、どんな友だちがいてどんな話をしているのかとか、すきなひとはいないのかとか。家族や友だちなら、親しさという名の無遠慮で踏み入ってくるような部分に、芽衣さんは触れてこない。
 それはありがたいのと同時にどこか物足りなくて、かえってわたしは、余計なことまでいろいろと、芽衣さんには話してしまう。

「ねえ芽衣さん。すきって、なんだと思います?」
「すき?」
「はい」
「おいしいってことじゃない?」
「はい?」
「すきっていうのは、おいしいっていうことだと思う。すきとおいしいは、似ているような気がするの」

 そういうと芽衣さんは、サラダからルッコラをお箸でつまみ出して、口に入れた。飲み込んでから、「うん、おいしい」と言う。

「自分でつくっておいてなんだけれど、おいしい。これは、すきっていうことにならないかな?」
「それはまあ……そうかもしれないです。そもそも嫌いだったら、おいしいなんて感じないと思いますし」

 とは言ったものの、わたしは釈然としない気持ちでいた。
 わたしがほしかったのは、そういう答えではなかった。

「芽衣さん。わたしは食べ物じゃなくて、人間に対する、すき、について訊いたつもりだったんです」
「人間も一緒じゃないの?」
「でも人間は、食べ物じゃないです」
「確かに、サラダや焼きおにぎりのように、こうやって味わうことはできないね」

 けれど、と芽衣さんは続けた。

「一緒にごはんを食べることはできるでしょ? 一緒に食べるごはんがおいしいと感じたら、それは、相手のことがすきだっていうことになると思うよ」

 それはあまりに短絡的すぎるのではないかと思った。
 そして同時に、そうかもしれない、そうだったらいいな、とも思った。


***



 はじめてうちに来たとき、芽衣さんは「お世話になります」と言った。
 普通は、こんにちはとかおじゃましますとか、そういうことを言うものなのではないかと思ったわたしに、芽衣さんはにっこりほほ笑んだ。

「だって、お世話になるもの。今日から毎週水曜日、秋菜ちゃんと一緒にごはん食べにくるから、よろしくね」
「べつに、そんなことしてもらわなくても大丈夫なのに」

 いつまでも幼い子扱いをされることに、それが愛情という名前のものであることは理解しながらも、正直うっとうしくなってきていた。
 そのときわたしは小学校の高学年になったばかりで、タイミングを合わせるように母の仕事が忙しくなった。両親はフルタイムで共働きをしていたので、お留守番は慣れっこだったし、それまでだって両親の帰りが遅くなる日は、母が用意しておいてくれた夕食をひとりで食べたりしていた。

「秋菜ちゃん、ごめんね。お母さんお仕事で、これからしばらく、水曜日はお夕飯つくれなくなっちゃうの。でも心配しなくていいのよ。芽衣ちゃんに来てもらうようにするからね」

 申し訳なさそうな顔でわたしの頭を撫でた母に、そのときはなにも言わずに頷いた。
 内心は、どうして、と思っていた。
 週に一度の夕食くらい、自分でなんとかできる。
 歩いて行ける距離にコンビニもスーパーもあるのだから、お弁当やお惣菜を買ってきたっていいし、いくらお料理ができないといっても冷凍食品をあたためたり、お米を炊くことくらいはできるのに。

「わたし、自分のごはんのことくらい、自分でできます。毎週、わざわざ来てもらわなくても大丈夫ですから」

 ためこんでいた気持ちが言葉となって出てきたとき、目の前にいたのは芽衣さんだった。
 ほんとうは母か父に言うべきで、関係のない芽衣さんにぶつけるべきことではなかった。
 芽衣さんは歳の離れた母の妹で、わたしの叔母あたるひとだった。母よりもむしろわたしの方が年齢が近いくらいだったので、「叔母さん」と呼んだことも、「おばさん」だと思ったことも、一度もない。
 芽衣さんはそのときまだ大学生で、うちから電車で二駅離れたところに住んでいた。
 ちょうど近くに住んでいたからという理由で、わたしのお世話を任せられたのだろうということは、簡単に想像できた。自分の夕食のことも満足にできないと思われていることに、わたしは苛立っていたけれど、同時に芽衣さんに申し訳なかった。
「大学生は暇だ」という話をよく聞くけれど、暇ではない大学生も存在すること、そして芽衣さんが後者だということを、わたしは母や祖母の話を聞いて知っていた。

「秋菜ちゃんは、わたしと一緒にごはん食べるの嫌なの?」
「そんなことはないです」
「じゃあ、いいじゃない」
「でも、芽衣さん、忙しいでしょ?」

 食い下がると、芽衣さんはすこしだけ考えてから提案した。

「じゃあ、通い妻っていうことにしよう」
「通い妻?」
「通い妻っていうのは、文字通り、通ってくる奥さんのことね」
「それは知っています」
「あら、意外におませ」

 すると芽衣さんは、楽しいいたずらを思いついた子どもみたいな顔をして、言った。

「ね、秋菜ちゃん。今日からわたしは、秋菜ちゃんの通い妻ね。ごはんをつくりにくるのも、一緒にたべるのも、親戚だからでも頼まれたからでもなくて、秋菜ちゃんの妻だからだって思って。このことは、おねえちゃん――秋菜ちゃんのお母さんには内緒だよ」


***



 お料理はすべて芽衣さん任せだけれど、後片付けはわたしも手伝うようにしている。洗剤のついたスポンジで食器を泡だらけにするのがわたしで、それを水ですすぐのが芽衣さんだ。
 並んでキッチンに立っていると、お互いの顔が目の前にないので、向かい合っているときよりももっと喋りやすくなる。
 つい、余計なことまで口にしてしまいたくなる。

「芽衣さん。わたし、この前男の子と出かけたんです」
「あら、デート?」
「デートじゃないです。付き合っているわけでも、なんでもないですから。ただの友だちです。映画を観て、お昼を一緒に食べただけで」

 スポンジをぎゅっと握りしめたら、洗剤がはじけて、ちいさなシャボン玉ができた。
それはどうして生まれたのかわからないといったように、空気に溶けるみたいにして、すぐに消えてしまった。

「おいしいと、思わなかったんです」

 正確に言えば、よく覚えていなかった。おいしかったのか、まずかったのか、それすらも曖昧になってしまっている。
 行ったのは、わたしのような中高生に人気があるカフェで、あの日も同じくらいの年齢のひとたちで賑わっていた。
 とくに、わたしたちのようなふたり組が目立っていて、「ほかのひとたちからは、自分たちも恋人同士に見えているのかもしれないね」というようなことを言われた。冗談めかした口調だったのに、その目はちっとも笑っていなくて、へんに熱っぽかった。

「そのひとのこと、すきじゃないのかもしれないです」
「慣れないうちは、緊張で味がわからなくなったりすることもあるんじゃない?」
「芽衣さんは、そうだったんですか? さっきの電話のひとと」
「どうかな」

 芽衣さんに特定の相手がいるらしいということは、本人から直接聞いたことはなかったけれど、なんとなく勘づいていた。
 どんなひとなのかとか、普段どんな話をするのかとか、そういうことはぜんぜん知らない。わたしの前では、電話に出ることも、メールに返信することもしない。
 訊ねれば教えてくれるのかもしれないけれど、どの芸能人に似ているかとか、どんなときに笑うのかとか、どういう趣味を持っているひとなのかとか、そういうことを知りたいわけでもなかった。
 むしろ、知りたくなんてなかった。

「そのひとと食べるごはん、おいしいですか?」
「そうね」

 ふふ、と芽衣さんは控えめな笑い声をたてた。
 けれど、と思う。
 けれど芽衣さんはそのひとではなく、わたしの「通い妻」だ。
 わたしはスポンジに洗剤を追加して、勢いよくコップの中につっこんだ。
 シンクの中が、泡でいっぱいになる。白いお皿も、透明なコップも、ぜんぶ泡で見えなくなる。
 大量の泡で、食器の汚れと一緒にわたしのなかにある嫌な気持ちも、すべて流れ落ちてしまったらいいのにと思った。
 きっと「通い妻」という肩書きに、深い意味なんてない。芽衣さんの気分がほんのすこし違っていたら、「メイドさん」だとか「週に一度ごはんをつくりに現れる妖精」だとか、そういうものになっていたかもしれない、その程度のものだろう。ごっこ遊びと似たようなもので、ほんとうにそういう関係になることは絶対にない。
 それでも、わたしはそこに、微かにでも意味を見出したくなってしまう。
 芽衣さんがわたしの「通い妻」をはじめてしばらくした頃、たいていいつも元気な芽衣さんが、見るからに疲れた顔でやってきたことがあった。
 寝ていないのか、目の下にはクマができていて、具合もよくなさそうだった。

「具合が悪いときは、無理して来なくていいんですよ。お家で寝ていてください」

 そう言うと、芽衣さんは「大丈夫、大丈夫」と言いながら、お鍋の中に白い固形ルウをぽとんと落とした。その日の夕食は、根菜たっぷりのクリームシチューだった。

「わたしが来たくて来ているんだから、秋菜ちゃんは気にしなくていいの」

 お鍋をくるくるとかきまぜる手つきを、覚えている。

「秋菜ちゃんと一緒に食べるごはんは、おいしいからね」

 その言葉の中に、たとえば電話のあのひとに向けられるような気持ちは、含まれていないとわかっている。
 そこまで都合よく解釈はできない。芽衣さんにとっては、わたしはどこまでも姪っ子の「秋菜ちゃん」なのだから。
 それでも、わたしは嬉しかった。
 ただ単純に、嬉しかった。

「芽衣さん、来週はエプロン持ってこないで来てくれますか」

 最後の一枚のお皿を手渡しながら言うと、芽衣さんは「どうして?」というように首をかしげた。

「たまには、わたしにつくらせてください。おいしくないかもしれないけれど」
「秋菜ちゃんの手料理!」

 芽衣さんは「楽しみにしているね」と嬉しそうに笑ってくれた。
 お皿をすすぎながら「秋菜ちゃんの手料理、てりょーうりー」と意味不明な鼻歌を歌いだしたのには、さすがに苦笑してしまったけれど。
 ハンドソープで手を洗いながら、そうだチャーハンをつくろう、と思いつく。お米と卵だけの、シンプルなチャーハン。
 冷蔵庫の中に食材がほとんどなにもなかったとき、母が即席でつくってくれたことがあった。あれなら、たまご料理しかつくれないわたしでも、できるような気がした。
 わたしにはお料理のセンスがないらしいので、簡単なものですら失敗する可能性はある。もしかしたら火力を間違えて焦がしてしまうかもしれないし、調味料の分量を間違えて、とんでもない味つけをしてしまうかもしれない。そこまでは大げさだとしても、芽衣さんのようには、きっとうまくつくれない。
 けれど、それでもいいと思った。
 芽衣さんの言葉が正しければ、きっと、何を食べてもおいしく感じるはずだから。
 だから今度は、わたしから言いたいと思う。

「芽衣さんと一緒に食べるごはんは、おいしいです」

 そして芽衣さんにも、ほんのすこしでいいから。
 そんなふうに、思ってもらえたらいいなと思う。



〈了〉




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